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「彷徨う人」
幕間

すべてはアリスのせい

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 その日、アルフレッドとジュリアンは諍いを起こした。
 傍から見れば失笑するような実に馬鹿馬鹿しいことでも、本人たちは真剣である。そもそも、痴話喧嘩は傍から見て馬鹿馬鹿しいものであるし、恋人同士や夫婦による戯れの延長と言ってもいい。
 この家……レドモン家の召使いたちも、彼らが少しばかり言い争おうが、数日のあいだ口を利かなかろうが、見ない振りで通した。第三者が介入することではないと分かっているからだ。チャーリーもハリーも、エマもトーマスも、自分たちが使用人であることをもちろんわきまえている。わきまえていたが、他家ではあり得ないほど、彼らと主人との距離は近かった。それでもさすがに、痴話喧嘩へ介入するほど無礼でも不粋でもない。すべてをわきまえているからだ。
 だが。その日はいつもと違っていた。“その日”が十二月二十四日だったからである。



 早朝のことである。隣で眠るアルフレッドが何やら呟いている。寝言だろうから、ジュリアンは大して気にも止めなかった。
 だが、再び聞こえてきた一言に耳を疑った。
「アリス……」
 ごくありふれた女性名だ。ごくありふれた女性名が、同じ床にいる恋人の口から聞こえてきたことに、ジュリアンの思考は停止しかけた。暫し放心した後に、猛烈な腹立たしさと苛立ちが湧いて来る。思考停止状態で我を忘れ、アルフレッドの髪を寝台の支柱に絡ませた。そしてそのまま階下へ降りた。
 チャーリーに紅茶を淹れさせ、一息ついてもジュリアンの怒りは収まらない。二階の寝室からアルフレッドの叫び声が響いて来る。騒然とする下僕たちに、ジュリアンは「放っておけ」と言い放った。
 アルフレッドの悲鳴を一しきり聞いてから、ジュリアンは寝室に向かう。鋏を手にして。
 数分後、上階はまさに修羅場を迎えた。チャーリーもハリーもエマもトーマスも、事態の収束を見守る以外に方法がなかった。



 翌日、十二月二十五日。ジュリアンは寝台で独りまどろんでいた。熟睡は出来ていない。ふつふつと湧き上がる得体の知れない感情は、床へ入る前に手放していた。代わりにやって来たのは猛烈な反省の念である。取り乱し感情的になった自分の見苦しい姿は忘れることにしたのでいい。それよりも、アルフレッドにしてしまったことへの申し訳なさでジュリアンの頭と心はいっぱいだった。床へ入るまで悶々と悩み、横になってからも同じことをぐるぐる考え続けた。
 彼はただ、女の名前を寝言で呟いただけである。昔の恋人の名前かもしれないが、そんなことはどうでもいいではないか。
 泣きながらいつの間にか、ジュリアンは眠りに落ちていた。気づけば朝が来ていたらしい。とろとろとはざまを彷徨い、何かの気配で眼を覚ました。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「おはよう、お姫さま」
 寝台の傍でアルフレッドが紅茶を淹れている。事態が呑み込めないジュリアンは、勢い良く起き上がった。
「アルフ……。何やって……」
「何って、お茶を淹れてるんだよ。ほら、クランペットが冷めないうちに早く食べろ」
 卓の上で紅茶が湯気を立て、クランペットからは良い香りが漂っている。アーリー・モーニング・ティーだ。一本足の小さな卓は、寝台に座ったまま軽食を取るのにちょうど良い。
 アルフレッドは、肩下までの髪を黒い天鵞絨のリボンで一つにまとめていた。胴衣に提げられた懐中時計のアルバートが微かに光る。
 もぞもぞ起き上がるジュリアンの肩に、アルフレッドがガウンを掛けてくれた。
「バターでいいか? 蜂蜜はどうする?」
 呆然とするジュリアンを前に、アルフレッドが訊ねる。
「アルフ……」
「紅茶に砂糖は入れるか? ……何だ、どうした」
 アルフレッドの顔にも口調にも、暗さや媚びはない。クランペットにバターを落とし、ジュリアンに差し出す。少々躊躇いながらも口に入れるジュリアンを見て、アルフレッドが微笑んだ。
「美味いか?」
 ジュリアンは無言で頷いた。アルフレッドは満足そうだ。
「……ごめん、アルフ」
 紅茶を片手に、ジュリアンは泣き出した。何故こんなに泣けるのかわからない。昨日の朝は苛立ち、怒っていたはずなのに。今のジュリアンに分かるのは、自分は幸せだということだけだ。
「謝るのは僕だよ。不愉快な想いをさせて済まなかった。ほら、冷めちゃうぞ。泣いてる場合じゃない」
 腰近くまであったアルフレッドの髪を肩下まで切ったのはジュリアンである。寝台の支柱に絡まってもがくアルフレッドの前で鋏を振り上げたのだ。
 アリスって誰。何だそれ。アリスって誰。知らないよ。アリスって誰。知らないって。
 終いには寝台に突っ伏したジュリアンが「アリスって誰」と泣き叫び、アルフレッドは切り落とされた髪を見て放心していた。
「髪……。ひどいことをしてしまった。ごめん、アルフ……」
「こんなもの、すぐ伸びる。そんなに気にすることじゃないよ。ちょうど少し切ろうかなと思ってたところだ」
 アルフレッドもジュリアンと並んで寝台に脚を投げ出し、紅茶を飲みはじめる。ハリーが調理し、チャーリーがお茶の用意を整え、トーマスが食器を揃えた朝食である。
「これで仲直りを」
 エマはモーニング・ティー一式をアルフレッドに託し、短いひと言を添えた。召使い四人が主人とその恋人を想って考えた作戦は、功を奏したらしい。
 レドモン家はクリスマスを無事に迎えられそうである。



 陽が傾きかける頃、アルフレッドとジュリアンは三階の空き部屋に設えられた露台に長椅子を出して、暮れゆく空を眺めていた。朝はこの季節らしくどんより曇っていたが、今はすっきり晴れ渡って上弦の月が良く見えている。気温はかなり下がっていて、吐く息が白い。
 アルフレッドの肩にジュリアンが頭を預ける姿勢で、二人は一枚の毛布に包まっていた。凍えるほど寒いが、互いの体温が伝わり、二人を幸福感でいっぱいにする。
 距離を取って控えたチャーリーは今にも声を上げて泣き出しそうな様子だった。エマはすでに前掛けで涙を拭っている。トーマスは安堵の表情を浮かべながらも、エマとチャーリーを見て苦笑した。
 温葡萄酒モルドワインを掲げてやって来たハリーが何かに気づき、チャーリーを片手で抱える。葡萄酒の盆はトーマスに渡し、何かを喚く寸前でチャーリーの口をそっと塞いだ。涙を忘れ、顔を赤くして突っ立つエマの腕をトーマスが引っ張る。四人の召使いは静かに退室した。
 露台の長椅子で、恋人たちは口づけを交わしていた。
 穏やかなクリスマスの夜である。

 

 後日、アリスが誰なのか判明した。
 アリス・リデル。作家ルイス・キャロルが書いた児童文学『不思議の国のアリス』の主人公である。アルフレッドは数日前に書庫でこの本を見つけ、読んだということだった。
 七歳の少女が騒動のきっかけになった。すべてはアリスの所為である。



※アーリー・モーニング・ティー:ベッド・ティーともいう。ハネムーンの朝、夫がベッドで寝ている新妻の元へ運ぶティー・サーヴィス。ハネムーン以降も誕生日などの記念日、または週末などに行うカップルもいた。
クランペット:表面に小さな穴の開いた軽食用パン。バター、蜂蜜、レモンカードなどを乗せて食べることが多い。
モルドワイン:温めたワインにクローブやシナモンなどのスパイス、オレンジなど柑橘類、シロップか砂糖の甘味を加えたホット・カクテル。ヨーロッパではクリスマスに好んで飲まれる。ヴィクトリア期のイギリスで、上記のスパイス類が非常に高価だったため、上流階級の人々を中心に広まった。
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